(前回からの続き)
「学校」の限界とゆるいエデュケーション
受験という強制力
国が税金を使うのはどういうことかっていうと、「めちゃめちゃユニークな天才」を輩出できる教育に使うのか「とんでもなく落ちこぼれたり、ずれてしまう人を生まないようにする」のかっていうと、後者に税金をかけると思うんですよ。「価値観の壁や枠をぶち壊して、自由になれよ」っていう方は、新しい価値をつくる側じゃないですか。
でも、まず国がやろうとするのは、それよりも問題を減らす方向。公共サービスってまずはそういう考えだと思うから。だから学校も「お前は才能もあるし、自由でいいよ」っていうことに先生が意識を向けるよりも、「お前そんなんで大丈夫か?」っていう、大きな問題を生まないことに意識を持っている。その中で、大きく社会から外れてしまわないように若者を生徒指導する中で、何が強制力になるかっていうと、「◯◯高校にいけなくなるぞ」っていうのが、重要な強制力なんでしょうね。
テスト問題の大半が暗記で解ける理由
受験という入口が「なぜ勉強なのか」に関してなんですけど、勉強って本来は暗記じゃない部分もいっぱいあるじゃないですか。だけど、大学受験のハウツー本によく書いてある、「全て暗記でいける」みたいな。仕組み上、勉強は暗記じゃないけど、受験勉強はほぼ暗記でもそこそこ突破できるようになってるらしいんですよ。
教育のジレンマなんですよね。暗記じゃない学力の部分は評価が難しいらしいんですよ。点数をつけるのが超大変。ちょうど今、センター試験に代わる共通テストの記述式問題についても、ずいぶんと揉めてますよね。結局、一旦中止になった。
それもやっぱり、ゲームの審判に判断する力を認められてるのと一緒で、学校の先生が「先生としての立場とか、力を維持するためには、公平なルールに乗っ取って、公正にジャッジしてます」っていう状態を崩してはいけないらしいんだと思います。
つまり、子ども達の評価が先生たちの主観だったり、先生たちの好みによって分かれてくるようになると親が「あの子だけ贔屓してませんか」とか「うちの子だけ差別されてませんか」とかってなっちゃうから、公正にジャッジしてますよっていう立場が先生というポジションを守るためにとても大切。そもそも、完璧に公平とかは無理な話ですが、できるだけそれを目指していることにしなければいけない。
学ぶことを極めることと暗記はイコールではない
それはゲームの審判もそうじゃないですか。「今のはちょっといいプレーだったな」と思ってアウトをセーフにすると「おい!」みたいになる。そうなると試合が成立しなくなりますよね。
その時に出てきたルールが「この問題をこう解けばこういう条件で点数が取れる」っていう仕組み、「テスト」ですよね。
だから、定期テストってあるじゃないですか。その定期テストってめちゃめちゃセンスがいい子は、そこそこは解けるかもしれないけど、僕もやってわかったように、暗記しないと100点満点は取れないわけですよ。
逆に言えば、暗記すれば効率が悪くても、センスがなくても、なんとかなるというルールだったなと実感していて。それは各科目で異なってはくるけど、できるだけ公平なルールを意識されてるみたいなんです。
客観的で公平な評価基準を持てるものっていうのが、どうしても暗記的な試験になるらしいです。3ヶ月間学んできて、科目に対する自分の考えや関心を書いてください、みたいな自由記述っていうのが大学受験に向かってどんどんなくなってくるじゃないですか。
だから暗記で計っているところは、学力を計っているというよりは、学力を身につけるための我慢とか努力とかっていう姿勢を数値化して計るための仕組みっていうか。実際に暗記的な勉強が嫌になって、やらなくて頑張らなかった俺でも大学の先生の端くれにはになれたので、学ぶことを極めるというところとそこは必ずしもイコールではないんですよ。
学校の限界
主観的な評価基準を学校の先生が受験の仕組みに持ち込んじゃうと、評価基準とかも曖昧になって「なんであいつだけうまくいっているんですか。うちの子も頑張ったのに何なんですか」とか「文章にセンスがない」っていうことで点数つかなかったら親は怒るわけですよ。特に、先生の言ってることが信じられないとか、先生は主観で判断してるなって、そうなると学校も子どもたちの統制が取れなくなるんでしょう。
客観的な評価基準を目指していても、100%客観は無理なんですけど、限りなく客観性がある方向にしようとしてる。美術科とか受ける場合は別ですけど、基本的に地元の普通高校を受けるときに美術の成績って1点も入らないじゃないですか。でもそれは少数派。
やっぱ高校の普通科の出来るだけいいところを受験しようっていう中で、暗記である程度クリアできる科目が用意されてて、そこでセンスや、そこで得た本人なりの視点とか、独創性みたいなものを評価するのは入ってないし、やったらやっただけの点数が出て、やらなかったらやらなかっただけの点数が出るように試験に集約されてるみたいで。それが学校というシステムの秩序を保つための方法であり、限界みたいなものなんですかね。
ゆるいエデュケーションで大切なのは子どもではなく先生
だから、「ゆるいエディケーション」の可能性という視点で考えると、公教育は大きなテーマですよね。公教育っていうくらいだから、スポンサーは国で、お金出しているのは多くの国民だから、そこで育てる理想の人間となると、社会の平均を維持するという方向に言ってしまわないか、という。
僕は新しい学びのあり方を考えると、そのときに大切なのが、先生のあり方が変われるかどうかだと思ってるんですよね。今の学校のシステムって先生がゲームの審判みたいな絶対的存在になってるんですよ。子ども達がはみ出してしまわないように。笛を吹いたら止まってもらえる存在じゃないといけないわけじゃないですか。審判が笛を吹いても、選手が止まらなかったら、審判の役割を果たさないですよね。今の所審判が笛を吹いて、言うことを聞かないとレッドカード出すぞっていうのと一緒で、先生が笛を吹いていうこと聞かないと、進路が危ういぞっていう。そのときに子ども達が、ぜんぜん違う選択肢もあるって知ってしまうと、統制とれなくなりますもんね。
大学の先生には、いわゆる学生指導っていことはなくはないけど、学生一人ひとりにたいする管理的なことはほとんど求められないんですよ。学びが豊かになるっていう、そのものだけがテーマだから。例えば大学では、大きく研究と教育の2つがあるんですけど、教育の文脈で、授業をして学びが面白くなるようにやることは求められてるけど、毎回こない学生を連絡とったりとか、来るようにいうような必要はないわけですよ。来なかったら来なかったで知らないっていうね。だから大学はそこは違うと思いますよ。
小中高大でそれぞれ求められる「学び」のあり方は異なってくると思いますが、きっちりと管理すること・されることが学ぶことではない、ということは、一度時間をかけて考えてみる必要があるのかなと思います。
「全部暗記したよね」はみんなが一番納得しやすい
すごく真面目で努力家で、推薦の枠をもらう人いるじゃないですか。うちの妹は推薦で国立大の教育学部に行ったんですけど、普段の定期テストで点数取りつづけて、評定平均を満点に近づけて、推薦枠をもらってました。この時、推薦されたことに対して、周りの学生が納得しないといけないじゃないですか。
うちの妹が評点4.9とかだったんですけど、その4.9っていう成績だったから、推薦の枠をもらえていけた。そのことに関して、みんな文句言わないんですよね。その理由は何かっていうと、定期テストの範囲を毎回暗記して点数をとる努力をしていたからです。定期テストって範囲が決められてるから、それこそ、暗記で突破できる割合が高い。それが総合的な受験の試験科目になると、時間制限もシビアだったりするし、暗記でカバーできない部分も出てくる。
定期テストって勉強が苦手でも、めっちゃ暗記すれば、満点がそこそこ取れる。妹は、超苦手な数学すらも、定期テストなら出てくる問題のパターンが決まっているんで、数字を置き換えるみたいな感じで、暗記したらしいんですよ。
ということは、極端なはなし、実際に教養が身についてなくてもいいんですよ。学校システム的には。暗記したことに関しててみんな納得してるから。「あいつ全然現代社会の仕組みわかってないじゃないですか」って文句言うやつはいないんですよね。現代社会のテストが満点なら。全部暗記したよねっていうことは、みんなが一番納得しやすいんでしょうね。妥協的な話ですけど。でも、逆は許されない。テストの点数が悪いのに、現代社会のテーマについておもしろい論考や議論ができるということで推薦枠がもらえたら、みんな納得しない。
学校システムは簡単には変わらない
今のほとんどの学校は、生徒や親からのフィードバックが反映されにくい。
もし、みんなが今のシステムを疑っていても、それに代わるものを運用するのがすごい大変で、簡単にはできないじゃないですか。先生も暗記をすることが勉強の本当の部分ではないとくらいわかっていても、じゃあそうじゃない部分で評価しようと思ったら、テストを作るのも大変だし、丸つけも膨大になって、何点つけるかっていうのも悩ましいし、答案返した後に、「僕のは4点で、なんでこいつのは6点なんですか?」っていう説明を1回1回してたら、時間も足りない、リソースも足りない。
でもそれが教科書に書いてたことと合ってるか合ってないかっていう明確な話だったら文句言いようがないじゃないですか。だから、そういう仕組みにすごく色々反映されてるみたいですね。なので、「ゆるいエディケーション」が考えるべき新しい学びのあり方っていうのは、その仕組みの満たせない部分を問うていく、補っていくような話なのかなって思ってます。
人とは違うルートを子ども達が自由に選ぶことは、本当はいいことだと思うし、人生の可能性は広がるはずなのに、学校の先生は、それを表立ってはいいねって言えない事情がある。でも、先生があんまり盛り上がってくれなくても気にせず、自分にあった選択をすればいい。それを、誰が教えてあげるのか、どうやって多くの若者たちに届けていくかは考えないといけないですね。
先生が「いいね!フィジーいいじゃん!お前に合ってるじゃない?」ってなってくれない現状の中で、どうやってそういった個別のケースに注目したり、励ましてあげられるような教育システムに変えていくのか。学校という仕組みを批判したいというよりも、どうやって別の部分で補っていくのか。家族なのか、地域社会なのか、それともネットなのか。ここには、新しい教育サービスの需要や可能性も眠っていると思います。
かたいエデュケーションが個々の才能を発掘できない理由
これまでの(公教育などの)かたいエデュケーションは「個々の才能を発掘する」ことには、基本的に主眼を置いてないと思うんですよ。「ユニークな個性を見つける」とかいうのが、教育目標に掲げられていても、基本的に、先生たちに課されていることはそうじゃなくて、社会的に問題な状態を少なくするっていうか、ズレを減らすことですよね。つまり、大きくはみ出す人とか、大きく落ちこぼれる人を減らそうっていうことがこれまでの教育の使命だったと思うんです。
それで、そんな教育の仕組みの話を聞いてると「個別に伸ばしてあげること」と「大きくはみ出す人を減らすこと」の両立が難しいんだと思います。はみ出す人を減らそうってした時には、「普通」とか「理想の形」とか「目指すべきゴール」っていうのは、設定として大事になってくる。でも、その運用がちゃんとされればされるほど、個別に見るということは難しいと思うんですよね。
日本の成長の鍵は「出島」にある
その壁をどう壊すかっていうと、僕は「出島」が大事だと思うんですよね。ものごとの本丸を改革するのって、すごい時間かかるし、簡単じゃない。教育の分野はなおさら。だから、出島的なものとして、実験的な場所を他につくる。新しいフリースクール的なものがどんどん増えているのは、おもしろいなと思います。
公教育の学校の先生や学校が求める正しさっていうのが、真理としての正しさではなくて、社会システムの運用上必要な、マイナスを減らそうというものであれば、それにうまくハマることができる人もいれば、どうしてもズレてしまう人もいる。学校社会の正しさに当てはまる人もいれば、フリースクール的な場所の正しさに当てはまる人もいる。
だから、もし自分の子どもが学校の正しさに当てはまらないという場合でも、不安にならなくていいと思うんですよね。今徐々に、そういった新しい実験の場所、その他の場所、その他のルートができてきて、認められつつあります。最初は、少数はだからちょっと心細いかもしれませんが、そこに勇気をもって一歩を踏み出していくことが、自分なりのモノサシをつくって生きていく、ということになると思います。
若新 雄純(わかしん ゆうじゅん)
福井県若狭町生まれ。株式会社NEWYOUTH代表取締役、慶應義塾大学特任准教授などを務めるプロデューサー。
慶應義塾大学大学院修了、修士(政策・メディア)。専門はコミュニケーション論。全国の企業・自治体・学校などと実験的な政策やプロジェクトを多数企画・実施中。
全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生がまちづくりを楽しむ「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円「ゆるい就職」、目的のいらない体験移住事業「ゆるい移住」などをプロデュース。著書に『創造的脱力』(光文社新書)がある。