いま、大学に必要な“ゆるさ”
ここでは、僕が今までやってきたことに関連付けて、人を育てること、教育、などについて、あくまでゆるーく語っていこうと思います。
ゆるさとかたさ
3年くらい前から、僕は慶應義塾大学で人間関係における「印象」についての授業をやっています。授業名が「インプレッションマネジメント」といって、コミュニケーションが専門の年長の先生と一緒にやらせてもらっています。
その先生は一緒にラボもやってる先生なんですけど、授業を担当することになった時から、まさにこの“ゆるいエデュケーション”なるものを実験しようと言っていたんです。
というのも、「ゆるい○○シリーズ」の中の「ゆるい」って言葉を使う時、僕の中では「答えってそもそも存在していなかったり、決められたゴールにたどり着くことじゃなくて、それぞれが自分なりに考えることができるとか、自分なりに見つけようとできるとか、自分なりに見いだすことができる」みたいなものが前提としてあるんですよね。
そういう能力や場、可能性をどう作っていくかというのが、この”ゆるさ”の中にはあって。ゆるいの反対の「かたい」っていう言葉の中には「カチコチだ」っていうことよりも、「明確に期待をされている答えを導き出さなきゃいけない」っていうことの方が僕らの感じてる“かたさ”なんじゃないかって(思う)。
公務員の仕事ってよく硬いっていうじゃないですか。でも、公務員の仕事の何が硬いかっていう話になるとよくわからないですよね。
でも、仕事で出すべき成果が明確で、求められる答えがはっきりしていて、その答えを確実に導き出すための仕事だ、だから硬いんだなと思ったんです。
答えは神様ではなく社会が作っている
一方で、じゃあ大学の存在価値って何だろうって思った時に、SFC(慶應大学の湘南藤沢キャンパス)って特に「何がこのキャンパス固有の存在価値なのか」みたいなことを問うのがテーマなんですよね。
だって他にいっぱい王道のキャンパスがある訳じゃないですか。このキャンパスが存在する理由、みたいなのがあると思うんですけど、僕らのラボのメンバーは「答えというものが存在しない社会の中で、大学で学ぶってどういうことなんだろう」みたいなものもテーマの一つになっています。
例えば、「答え」というものの考え方もややこしいんですけど、神様が決めた究極的な真理みたいな答えはないと思うんですよね。でも答えらしきものを社会では作るじゃないですか。それで、どこの親もその子ども達も、ある社会の、ある時代における答えらしきものは何かっていうのをすごく慎重に見てる訳です。
お受験をするのもそうだし、習い事をするのもやっぱりそれが正しい選択なんじゃないかっていうことをすごく意識してる。正しそうな選択があると、自分に合ってなくても、社会的に正しそうな選択を選んでしまうっていうか。
それは、これまでは明確な答えらしきものを選んでおけばある程度わかりやすい成果が出たからですよね。例えば、暮らしが豊かになるとか、所得が上がっていくとか、社会全体が整備されていくみたいな。
そんな答えらしきものが社会の発展とともに作られたと思うんですけど、今は成熟して複雑になって、ネットもできて、価値観もいろいろで、答えっていうものを探すこと自体がそもそもナンセンスなんじゃないかってことになりつつあると思うんですよね。だから、答えが絶対だって言ったら、それはもうインチキだと思うんです。
それなら、大学の授業は、答えを教える場ではなくて、みんなが人生をかけて考えざるを得ないテーマについて、様々な角度から集まった人が考える場にしようと。今担当してる授業は、選抜して30人にしてるんですけど、その30人が自分なりに考えられるとか、自分なりの見方ができるとか、視点を深めることができる場所を目指している。
ある事柄について、答えがこれだってことを覚えるんじゃなくて、答えのないような複雑なテーマについて向き合って自分なりに考え抜くとか、そういうようなことをやりたいなって思って。それで、たどり着いたのが“ゆるい”だったんですよ。
90分で親子ゲンカは解決しない
学ぶことを硬くさせてるのはなんだろうと思ったら、大学の授業ってこうあるべき、教室はこうあるべき、90分間はこう使うべきっていう「こうあるべき」ってのがいっぱいあって、わかりやすい明確な答えにたどり着くために設計されたのだと思うんですけど、それを一回手放してみる。
ゆるい学びの場を作ることによって「これが正しいに違いありませんよ」っていうものはないんだという、リセットする感じを作りたかったんです。
リセットと言っても、完全に全部を否定する訳じゃなくて、一旦立ち止まって見直せる風にしようと。答えがないものを考える時って、上手くいくケースもいかないケースもあるんですけど、90分の中で成果が出るとは限らないことって本当にたくさんあると思うんですよね。
例えば、親子ゲンカした時に、90分話し合えば親子ゲンカの溝が埋まるっていうものではないじゃないですか。お母さんが「ここは大事なところだから90分話し合いましょう」って言って、90分みっちり話したら親子のすれ違いがなおる、とかではないですよね。
でも僕らがこれから人生で向き合っていくべきテーマって実はそういう数値化できないことが多いと思うんです。カップルが喧嘩して「今から90分みっちり話しあお」みたいな。
90分みっちり話したからお互いの誤解が解けて、明日から仲良くできるとかいう訳ではないんですよ。でもそういう、どこまで到達すればオッケーでもないものって、世の中にめちゃめちゃ増えている感じがするんですよね。
「試してみる時間」を過ごす
じゃあ親子ゲンカして、思春期の子どもと親の心の溝を埋めるものってなんだっていう時、それは時間が何分あれば溝が埋まる、とかではないですよね。でも、色々「試してみる時間」を過ごす必要はあるんです。授業もそういう場にしたいと思っていて。
例えば大学の授業って1回の授業は2単位で計14回講義があるんですよ。14回講義をやるとここまでいけるって所を設定するってことは、逆にいうと、たどり着くことが明らかに可能なことしかやれないんですよね。
でもそれって、極論その内容が書かれた本を読めばわかるとか、そういう話になっちゃうので、そうじゃなくて、その場に集まった人たちとその空間を共有して、それについて向き合ったからこそ初めて生まれる、みたいなものをどうやって作るかを考えてて。
一方で、小さい頃から学校でも家庭でもそういう風にしなきゃいけないことっていっぱいあると思うんです。
例えば、九九を覚えることだったら目安の時間があって、何時間かけて、何週間以内に、九九の暗記を完成させましょうってできると思うんですけど、僕らの人生にとっては納得感だったり、自分なりの生き方や、自分らしい哲学を持つとか、自分なりの人生を描くとかいう話になってくる。その時、2時間×8回で自分の人生描けます、とかじゃないと思うんですよね。
だから、そういうことを考えると、これが新しい学びの1つのあり方としてあっていいんじゃないかと思っていて。
既に用意された答えを教えない
でも、“ゆるい”っていうのにも、相性が悪いものはあります。やっぱり警察の仕事とか税務署の仕事とか、ゆるくちゃいけないものもあるんですよ。でも、ゆるさが必要な分野もたくさんあると思うんですよね。僕の専門は法律でもないし、会計学でもない、やってるのはインプレッションマネジメントって授業で、今年は「個性」をテーマにしていて。
それは「個性ということ」についての知識を14回でここまで身につけましょうってことじゃなくて、「個性とは何か」っていうことについて、それぞれの考えや視点を深められるようにするっていうか。
なんでこの「個性」を選んだのかというと、答えが出ないから。僕の授業の中では、個性とはこうであるとか、既に用意された答えを教えるための授業じゃないからなんですね。
要は、生徒がそれぞれ自分で考えるっていう。個性がこうですよって理論を紹介する時間も少しあるんですけど、それは手がかりに過ぎないっていうか。だって、そんな話を14回も聞いててもつまんないじゃないですか。
2人の先生で担当しているんですけど、2人とも個性とはこうだっていうものを明確に学生に伝えるためにやってるわけではなくて、一緒に個性ってものを探したり考えたりしてるんですよね。
アシスタントもいれると全員で教室に35人いるんですけど、そのみんなで個性というテーマを通して問いを深める。考え方や見方を模索したり作ったりしていくって感じですよね。それに、大学の中で泊まれる施設があるから半年で14回の授業の内、2回合宿しています。
でもその14回の授業も2コマ連続を7回になるようにしているんですよ。1回で3時間やる。1回3時間ずっと講義聞いてたら死んじゃうじゃないですか(笑)。だから講義をするんじゃなくて、手がかりになるような何かのテーマを伝えた上で、みんなで何かに取り組んでコミュニケーションする、ということを3時間の中で毎回しています。
若新 雄純(わかしん ゆうじゅん)
福井県若狭町生まれ。株式会社NEWYOUTH代表取締役、慶應義塾大学特任准教授などを務めるプロデューサー。
慶應義塾大学大学院修了、修士(政策・メディア)。専門はコミュニケーション論。全国の企業・自治体・学校などと実験的な政策やプロジェクトを多数企画・実施中。
全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生がまちづくりを楽しむ「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円「ゆるい就職」、目的のいらない体験移住事業「ゆるい移住」などをプロデュース。著書に『創造的脱力』(光文社新書)がある。